下記の文章は、人事院事務総局から発行された=新たなステップを踏み出すために(定年後の生活設計)=(平成16年度版)に収められています。平成15年9月国家公務員を対象とした講演で小澤がお話した内容を元に、改めて執筆した内容となっています。
『キャリアを活かして起業する』
有限会社モアフレンズ
取締役 小澤 佳代子
(特定非営利活動法人WING21理事長)
≪はじめに≫

元上司に会社設立の報告をした際「ハローワークを退職して起業したのは君が初めてだよ。」と聞かされました。ハローワークに限らず公務員退職後に自力で起業する方は今までほとんどいらっしゃらなかったようです。しかし時代は急速に変化しています。退職後それまでの関連機関などに再就職する道が次第に狭まってきていることに加え、個人の側にも起業をはじめとした他の道を検討したいというニーズもあるようです。ぜひ体験談を紹介してほしいという声はそんな背景から出てきたものと伺っています。

「公務員はつぶしが利かない」という台詞は私自身がハローワーク在職時によく聞かされたものでした。公務員を長らくやっていると民間の厳しい現実を知らない、現状認識に甘さがある、などの自戒を込めたコメントでした。しかし果たしてそれは本当でしょうか。民間への再就職とは事情が異なるでしょうが、起業という形態で見る限り私の印象は少し異なっています。というのも私が想像していた以上に人様から信頼していただけるという実体験があるからです。新規事業分野に進出した場合、信頼感を持っていただくためにはある程度の時間の経過や実績を積まなくてはならないと覚悟していたのですが、少なくとも私の場合にはこの点を比較的簡単にクリアしつつあります。「実務に通じていること」「長年公務員をやっていた人だから人間的に信頼できること」などが根拠となっているようで、正直なところ驚いています。更にもうけ主義でやっていないことが好ましいとか、本気で社会貢献を考えているらしいとか、他にもいくつか理由はあるようですが、何はともあれ信頼感を持っていただけるのは私の最大の強みです。そんな私のささやかな体験から、非営利事業で起業しようと考えている方には公務員経験がとても役立つということが言えそうです。

さて私が国家公務員として勤務していた職場は、今や頻繁にマスコミに登場するようになったハローワーク(公共職業安定所)でした。不況の世相を反映して今や公務員としての職を得ることはステータスとされていますので、初対面の方には「なぜ25年も勤めた公務員を辞めたのですか?」と必ずといってよいほど聞かれます。そのまま勤め続ければ、今時では珍しい安定した身分が保証され、その上多少目減りしたとはいえ安定した収入も得られるのに、なぜそんな結構な立場を自ら進んで放棄したのか、という言葉が言外に含まれているようです。定年後の起業でも良かったのでは?という疑問や、更に「まだ一般的ではないキャリア・カウンセリングの専門会社なんて、ビジネスとして成り立つの?」という意味を込めて訊ねる方もいらっしゃるようです

そんなもろもろの疑問に対して私は次のように考えていました。20年も前から構想を持っていた事業が、社会環境と自分の経験性の両面から見てそろそろ実行できそうな環境になってきたこと、また提供内容から考えて後継者を育成するには何年もかかるため、定年後では遅すぎてしまうことなどです。個人のキャリアに関する大転換が見られる現在の社会状況こそ、私の構想を実現させる最適な時期であると決断したことになります。

さて、前述とは別にこんな感想を漏らす方もいらっしゃいます。「う〜ん、それはやっぱり女性だからではないかなあ。僕ら男性からすれば定年前にそんな冒険は許されないからねえ。リストラされたのなら別だけど。」と。これも多くの方の正直な気持ちだと思います。事実私の夫は人が羨む公務員ですし、住宅ローンも、借金もなく、子供はすでに独立していて、今後特に大金が出て行く可能性も低い、などかなり恵まれた立場にいるわけですから、ローンを抱えて、家族の生活を支えている方からすればうらやましい身分ということになるわけです。私自身もそんな恵まれた立場にいることに感謝しつつ、その特権をフルに活用して起業を考えたというのが偽らざる気持ちです。年金受給資格の25年勤続という点も区切りをつけるには良い材料となりました。

以上のことを踏まえていただいて、次章からは起業に至ったいきさつや当時の背景等をお話してみたいと思います。



≪起業を決意した背景≫

私がハローワークを退職したのは2001年3月末、51歳の時でした。肩たたきがあったわけではなく、何か業務上の失態をしでかしたということもありませんでしたが、25年勤務という節目を機に、今後の人生を考えた結果の決断でした。

当時の私は求人の受理等を行う事業所サービス部門の課長職でした。管理者としての業務に加えて各種のプロジェクトや窓口業務も行うという点では大変忙しく煩雑な業務を任されていたことになります。しかし課長としての役割はすでに10年を迎え、正直なところ足踏み状態であることも感じていました。このまま踏み止まっていればあと1〜2年で上級ポストに就くことも予想されましたが、もしかしたらそうはならないかもしれません。周囲の人たちを観察すると今後の自分に対する処遇もせいぜい部長職止まりだろうな、といったような感じも持っていました。要するに自分の将来が見えてしまったというわけです。また一方で、昇進したとして、自分が納得できるような仕事をやれるかどうかについての不安材料もありました。上級管理者になればなるほど実務の現場からは離れて行きますし、そうなると他で通用できるだけのスキルも陳腐化して行くことになります。その反面、組織を動かす醍醐味が味わえるとされていますが、果たしてそうだろうか、といった根本的な疑問も生じていました。大きな組織、特に官においては、社会情勢に応じたフレキシブルな対応が取りにくいなどその面白みを感じにくかったことと、不遜かもしれませんが、ハローワークの所長よりは創業社長として苦労する道の方が私には合っているような気がしたのです。その所長のポストでさえ私は就くことがないかもしれないわけですから悩む必要もなかったというわけです。

また社会情勢も無視できないほど大きな判断材料を提供していました。経済のグローバル化に伴い、自分のキャリアは自己責任で管理するという世界的な潮流に、日本も例外ではいられなくなってきたからです。これからは個人を対象としたキャリア・カウンセリングなど、さまざまな専門的サービスが必要とされる時代になるはずです。一方、公的機関は本来国民のセーフティネットの役割をメインにすべきで、個別のニーズに応えていくのは過剰サービスと見なされる危険性もあります。緊縮財政の折から費用対効果が厳しく問われる時代でもあり、今後その傾向は変わらないだろうということ。従って公的機関が提供できる内容は限られたものにならざるを得ないし、その結果多様な個別ニーズに応えるのは、ビジネスとして利益をあげられる分野は民間企業が、そしてそれ以外の分野はNPOなどの非営利団体が中心となって行くだろうと予想しました。

折しも私が会員として所属する(社)日本産業カウンセラー協会の活動で多くの仲間たちと出会い、その仲間からは産業カウンセラーが活躍できる場を開拓してほしいという声が届いていました。資格を取ったものの実践の場がない、このままではせっかく勉強して身に付けた能力も世の中の役に立つことなく自然消滅してしまうのでは、と疑念の声に満ちていました。現時点ではハローワークの相談員として採用されるなど活躍の場は少しずつ広がってはいますが、当時は全くなかったも同然でしたから、これらの声はかなり大きな問題点を指摘していたのです。社会的にも中高年の自殺の急増、引きこもりや就職を断念してフリーター化する若者の急増、母子家庭の急増による再就職支援の必要性等、カウンセラーの潜在的ニーズは高いはずなのに、社会システムとしては相変わらず未整備のままという点が特に私の使命感に火をつけました。私はパイロット的な役割を大変好む人間なのです。

以上のような事柄が同時期に私の中でひとつになって「そうだ起業しよう!」という結論を一気に導き出したのです。



≪退職、起業までの経過≫

周囲の人たちの反対はなかったのかという点もよく聞かれることです。もちろん信頼していた元上司(男性、女性各一人)にも話はしました。しかし、すでに結論を出した後でしたから、相談というよりは決意表明という形でした。女性上司にはあと2〜3年待ったら?というアドバイスもされましたが、私の決意の固いことがわかると特に反対はされませんでした。基本的には私の実行力を信頼してくださったようでした。男性上司には、そうか、いよいよ組織を見限ったか、と言われましたが、私は特に否定もしませんでした。ある意味では当っているようにも思えたからです。また夫からは初めのうちこそ生活設計が狂うといって多少の苦言がありましたが、「公務員をリストラされたら私の会社に来れば。」で一転しました。それに夫は私の活動についての最大の理解者でもあったので、本気で反対していたわけでもなさそうです。娘や妹夫婦、古くからの友人・知人からも「とうとうその時が来たんだね」と賛成と励ましの声ばかりで、反対する人はひとりもいませんでした。

決意してから4か月後の2001年3月末、25年間勤めた職場を後にしました。退職直前まで残業もこなし、ほとんど休暇も取らずばたばたしているうちに時期が来てしまったという感じでした。

退職後の6月に有限会社モアフレンズ(http://www.more-friends.com/)を設立し取締役社長に、そして2年後の2003年6月にはNPO法人WING21(Women’s interest groupの略)(http://www.npo-wing21.com/)を設立し、理事長に就任しました。前者は主に若者を対象としたキャリア支援の会社、後者は産業カウンセラーが中心となって活動する、女性の自立支援を目的とする会社です。どちらの会社も設立に関する書類作成から諸手続きまで、すべて専門業者に依頼せず自分たちで行いました。業者に依頼すると前者では20万円ほど、後者でも17万円ほどかかるのが相場のようでした。もちろん印紙代等の実費は別途必要となりますから、この費用負担は避けるに越したことはありません。この点についても公務員経験は大いに役立ったと思います。何しろ公的書類作成のポイントはすべて共通していますから、そのツボを理解している人間にとってはこのような書類を作ることはそれほど難しいことではないからです。その他インターネット上にも多くの情報があり、疑問点を解決するのに非常に役立ちました。

有限会社とNPO法人の違いはあるものの、私にとってはどちらも営利を目的とした事業ではないという点では共通しています。最初に有限会社を設立したのはただ単に手続きが容易だったからという極めて安直な理由と、他の事業(パソコン関連)から始めて徐々に本業に移行しようという作戦を立てていたからです。2001年当時はまだNPO法人設立に関する情報が少なかったことも影響しています。したがって2年後のNPO法人設立に至って、ようやく私の志が具体的な形でスタートしたことになるわけです。このNPO法人は産業カウンセラーの仲間たちが中心となって活動していますが、その仲間たちに私の持っているノウハウ等を提供して次世代の育成をすることも大きな目的のひとつとなっています。



≪起業への伏線−公務員になった経緯とその後≫

私が出産のため民間企業を退職したのは1972年、娘が誕生したのは翌1973年、1年間のパート勤務を経てハローワークに再就職したのは1976年のことでした。専業主婦の生活に飽き足らず、再就職活動を開始したのはまだ娘が1歳のお誕生日を迎える前のことでした。しかし、いくら応募書類を送っても面接までこぎつけられない状態が続いていました。こんなことでは再就職は無理かもしれないとあせりはじめていた頃、人から公務員試験受験を勧められたことが転機となりました。当時としても専業主婦から公務員となったのはきわめて稀なケースだったと聞いています。公務員になる直前の一年間は公立中学の事務パートとして9時から4時まで働いていたのですが、それは公務員試験には受かっても子供がいることがネックになってなかなか就職できなかったためで、結果的に言えば正式に就職できるまでのいわば慣らし期間のようなものとなりました。

そんな経験も手伝って勤務先には迷いなくハローワークを選びました。就職活動で苦戦した自分自身の体験を生かせるのではないか、また人と職業に関わる仕事はどんなに時代が変わっても常に存在するテーマではないかと感じていたからです。更に制度や政策に関わることより、出先機関で直接人と接する場が自分には一番ふさわしいと感じていました。これは利用者としてハローワークに通った経験から直感的にそう思いました。また以前民間企業に勤務していた経験や、アルバイトで店員や営業の仕事をやっていた経験からも自分の適性を判断したという側面があります。

さて、めでたくハローワークに就職できたからと言っても決して手放しで喜べない現実がありました。希望する職業相談の仕事は就職後12年後まで待たねばならなかったからです。当時は経験年数の少ない者の配属先はほとんどが雇用保険関係というのが相場だったことに加えて、転勤、昇進なども絡んで結果的にそうなってしまったのです。今なら差し詰め「やりたい仕事ができないなら退職します」となってもおかしくないところだったのですが、幸か不幸かそうも言っていられない状況となりました。就職後半年もしないうちに前夫とは離婚してしまったからです。新たに娘と2人の生活を支える稼ぎ手としての役割が課せられることになり、結果的にはこれが幸いした形でした。大黒柱としての任務を全うするためには仕事を辞められない、子供のいる人は駄目ねと言われないよう責任を持って仕事をし、その上で私生活の充実を図ることが自分のためには必要だと思えたのです。実際初めの10年くらいは極めて趣味的とも言える生活ぶりでした。熱中したことは、自己表現のひとつとしての写真や、バンド活動、演劇活動、そしてバイク、手編みセーターの製作等々です。この間は後で振り返ってみれば感性に磨きをかける時期だったと感じますが、その後は就職してから10年目に受けた職員研修を機にカウンセリングや業務関連の専門学習、ビジネス関係の学習など、次第に知的学習に変化していきました。

感性のトレーニングとなったこの10年の活動については、ご紹介すると大変長文になりますので別の機会に譲るとして、次章では起業に直接影響を与えたカウンセリング学習についてご紹介したいと思います。

≪カウンセリング学習≫

就職してから10年目の時に中堅研修を受けることになりました。労働省(当時)研修所で行われる10日間の泊り込み研修です。そこで行われたカリキュラムには生命保険会社で教育課長をされている先生のカウンセリング研修が含まれていました。先生のお話を聞いた後、ロジャースの「出会いへの道」(エンカウンターグループのドキュメント)という映画を鑑賞していた時に、私は突然カウンセリングというものに興味を持ち始めていました。それまではカウンセリングというと人生相談みたいなものだろうと勝手に解釈していて、あまり興味を感じなかったのですが、先生のお話を聞いたことと映画を見たことで突然自分の心の中に灯が点った感じでした。それまで10年近くいろいろな活動をしてきた仲間たちとのひとつひとつのやり取りが鮮明に浮かんできました。バンドや演劇活動を通じて本音で語り合える友人ができ、その仲間たちのおかげで現在の自分がある。自分の性格の弱点だったところを変えてしまうほど深い影響を受けていることに気づかされました。ロジャースのグループエンカウンターのドキュメント映画は私に多くの気づきと感謝の念を呼び起こしたのです。涙が止まりませんでした。

そんな体験から「カウンセリングの勉強をしよう」と思いつきました。決意したのは研修後だったのですが、まずは先生にお会いしてお話を伺ってみようと思いました。研修所に問い合わせたところ、後日先生自らお電話を下さってお会いすることになりました。今までの私の体験や現在の状況等を詳しくお話したと思います。先生は一通り私の話を聞いた後で、「あなたはとても豊かな体験を重ねてきているので、今度は読書をされたらいかがですか」とアドバイスされました。お勧めの本も紹介していただきました。我ながら知性には欠けているという自覚もあったので、それからは猛烈な読書家に変貌しました。就職後10年目にして、正に右脳から左脳への大転換が起こったというわけです。カウンセリング関係の本は、分厚い専門書も含めてどんどん読みました。自分自身の体験が下敷きにあるためか、まるで乾いた砂に水が染み込むように入ってきます。書かれているひとつひとつのことが心に響いてくるのです。以前なら全く理解できなかったであろうことも、うんうん、そうなんだよね、って感じですんなり入ってくるのには驚きました。

当時すでに係長となっていましたから、これらの勉強は部下の教育にもすぐに役立つものでした。課内の職員研修などにもエンカウンターグループの手法を取り入れて、日ごろ感じていることを本音で語り合い、参加者からも今までにないすばらしい体験ができたと感動の声が上がりました。今まで自分ではできないと言っていたことにチャレンジする者が出てきたり、お互いの良いところを認め合い人間関係がとても円滑になりました。そんな職場は他部署からはうらやましがられ、また来所者にも伝わって、こんな職場で働きたいと言ってハローワークに就職する人まで出てきました。

このような体験を出発点にしばらくは独学によるカウンセリング学習と職場内のカウンセラー役を引き受けていましたが、ある時、元上司から、ハローワーク職員有志で産業カウンセラー養成講座を開講したらどうかと話がありました。当時の私の担当業務は障害者対象の職業相談だったこともあって、体系的にカウンセリング学習を行うには最適な時期だったと思います。早速参加者を募って講座を開講することになりました。これは自分たちで受講費用を出す自主講座の形でしたが、カリキュラム自体は(社)日本産業カウンセラー協会認定の養成講座カリキュラムに沿ったものとしました。せっかく勉強するのだから資格も取得した方が励みになるだろうということになったからです。

現在は全国のハローワークで公費による講座受講ができるようになっていますが、出発点は私たちのささやかな自主講座から始まったものだったのです。当時の職場環境はカウンセリングに理解があるとはとても言えない状態で、私たちメンバーは陰では変わり者呼ばわりされていたようです。何でも開拓者というのはそんなものかもしれません。

さて、産業カウンセラーの資格を取ってからじきに私は協会の広報委員に推薦され活動を始めました。広報誌というのは全国にいる会員に届けられる月刊誌になっています。広報委員として活動する中で私が問題点と感じたのは新しく加入する会員の声が届きにくい、特に年齢が若いこともあって協会の活動に参加していない人たちの中には、いろいろ意見があるけれど、それを発言する場がないということでした。今で言えばインタラクティブな(双方向の)ツールを必要とする時代がやってきていたのです。そこでパソコン通信を使って意見交換の場を開設したいという提案をしたのですが、何せ96〜97年頃のことですからメンバー自体も、また協会の幹部たちも対応しかねていてなかなか進まない状況でした。そこでしびれを切らした私がとりあえずニフティ内に開設できるパティオ(今なら差し詰めメーリングリストのようなもの)を立ち上げ、広報誌で宣伝、全国の仲間たちが続々と集まってくるようになりました。その中での活動は、モニター的に意見を聞いたり、若い会員たちが書き込みという形で発言する内容を広報委員会にフィードバックしたり、更には原稿募集等も行っていました。

何年か経ち、そのメンバーの中から産業カウンセラーの資格を取っても活躍の場がないという点や、協会で向上訓練等を受けても実践的なスキルアップトレーニングにはなりにくいことなどの不満が出てくるようになりました。私も含めてハローワークの仲間たちにとっては職業相談という実践の場があるので、特に不満に思わないことであっても、普通の勤務をしている人たちにとってはかなり切実な問題だったのだと思います。そんな中で語られたことは、欧米人と違って日本人にカウンセリングを根付かせるのは難しいのではないかとか、そもそも悩んでいても有料での相談を希望する人はいないのではないかとか、日本人の特性や社会システムの問題を指摘する声も聞かれるようになってきました。以上のことは前述の≪起業を決意した背景≫でも触れたとおりです。

こんな変遷を辿って、カウンセリングをもっと社会に根付かせたいという私の仲間たちの切実な願いを実現させるため、その指揮を執って具体的行動に移ることが私の新しい任務となったのです。(※現在一般的に使われている「キャリア・カウンセリング」という呼称ですが、当時は一部の人にしか認知されていませんでした。)



≪現在の活動≫

2003年の春にモアフレンズの事業内容を見直しパソコン関連事業から撤退しましたので、私の現在の活動は法人の代表者というよりは個人としての活動が主体となっています。今後はNPO法人WING21の理事長として新たな任務が増えてくることと思いますが、現時点では次の3つの分野を中心に活動しています。なおNPOのメンバーは現時点では私が依頼されたセミナー等にアシスタントとしてボランティア参加し、実践的スキルの向上を図っている状況です。

@キャリアカウンセラーとして若者から中高年までを対象にキャリア相談に応じることAキャリアに関する各種の執筆活動と取材対応B再就職セミナーや(社)日本産業カウンセラー協会が行うキャリアコンサルタント(厚生労働省が推進しているキャリア相談を行うための資格)養成講座等の講師。

@は会社の相談室で個人を対象に悩みの相談(料金は50分5000円と業界最安値)に応じています。転職活動が不調な人には今までのキャリアの棚卸と本人の希望とのすり合わせを行い、関連する分野の労働市場についての情報を提供したり、インターネットを利用して実際の求人を一緒になって探したりします。もちろん応募書類のチェックや時には面接のリハーサルを行う場合もあります。サービス内容は専ら本人のニーズに合わせて多種多様といったところです。また在職者の相談では、今後のキャリア開発の方法、置かれている環境条件の調整方法、本人が抱えている対人スキルの問題を解決していくための方法など、時にはその場でロールプレイを行ったりして、これも本人のニーズに合わせて行っています。

また相談室以外にも無料で参加できるメーリングリストやNPOメンバーが運営する井戸端会議的な「ほっとサロン」の活動もあります。前者のメンバーは産業カウンセラーやハローワークの仲間たち、それに今までの相談者のうち私が必要と判断した人やセミナー受講生など、多種多様な人たち(現在80人以上)が集まっています。後者は担当メンバーを中心に月一回開催していますが、私自身もオブザーバー参加することにしています。

どちらの活動も、本音で話し合える場を提供し、それぞれの意見・情報の交換を通じて参加者のヒューマンスキル向上を目指すのが目的です。

Aの執筆については東京都発行の「再就職の知恵袋」を始め、サリダ等の各種求人情報誌やキャリアに関する書籍の監修、その他新聞・雑誌の取材等いろいろな依頼があるのですが、基本的にはキャリアを真剣に考えている人たちのために役立つものなら引き受けるというスタンスでいます。

B就職関連のセミナーでは主として履歴書・職務経歴書などの書類作成、面接のロールプレイ、就職関連サイトの活用ノウハウの提供等ですが、母子家庭の母のための再就職セミナーでは心理的ケアも多少含まれます。またそれ以外に在職者向けや女性の能力活性化のためのエンパワーメントセミナー等の依頼もあります。すべてを通じて私のセミナーの特徴は「人を元気づける」ことと言われています。

≪「元気づけること」それが私の使命≫

 ある時こんなことがありました。ある女性団体で行ったグループカウンセリングを聴講していたNPOメンバーから「先生は相談者に対して『それは無理、あきらめなさい』とは決して言わないんですね」と言われたのです。その時の相談者というのは声優になりたいという夢を持っていた30代の母子家庭のお母さんでした。私が彼女に話したのは次のような内容です。「それはね、あきらめずに、ずっと自分の中に置いておくのよ。いつかチャンスが来るかもしれない。声優という仕事でなくても、あなたの、その素敵な声を活かした何かがあるかもしれない。だから、それを心の中にずっと置いておいて、その上で、今できることを探しましょう。どんな仕事でも、声は使うわけだから、就いた仕事の中であなたの声を活かせることに力を入れながら働いていったら良いのよ。」私が彼女に最も伝えたかったこと、それは「夢は大切に持ち続けるように」というものでした。

「彼女、泣いていましたよ」とアシスタントが後から教えてくれました。もちろん、うれし涙です。「彼女、これまでいったい何人の人に、そんなの無理、あきらめなさい、と言われてきたのでしょうね。そして、自分自身さえも、諦めなくてはいけないのだ、と思い込んでいたのでしょうね。先生、先生がはじめて『諦めなくてもいいんだよ』と彼女の肩を押してくれのじゃないですか?彼女はこの相談で現実に立ち向かっていく力がわいてきたのだな、って感じました。」

アドバイスしているときは夢中なので、アシスタントに言われるまで気づかずにいたのですが、このエピソードには私のキャリア・カウンセリングの特徴が鮮明に描かれていると思います。

確かに今まで就職活動が不調だった人が、私と話をすることで元気が出て、そして就職先も決まって行くというパターンは多かったのですが、肝心のなぜ元気になるのかという点については不明のままでした。しかし、このコメントを得たことにより、キャリア・カウンセリングを行う上でとても大切なキーワードを見つけた気がします。それは本人の夢や希望を徹底的に尊重すること、すなわち本人の根源的な力を信じるということでした。

「人には限りない可能性がある」という言葉は誰しも口にはするものの、果たして心底信じているかと言うとそうでもないような気がします。実際何か新しいことに挑戦しなければならない場合、しり込みする人もいます。「私には無理、私にはできない」と。確かに、努力するのもしないのも本人次第なので、私がどうにかできる筋合いのものではありませんが、本人が望み、なおかつ努力している限りきっと納得のいく形で(そのままの姿とは限らない)実現できると信じること。私自身が今までの人生で行ってきた数多くの成功体験を通じて、この信念は揺るがないものになっています。自分自身の可能性を信じているからこそ他の人の可能性も信じられる。キャリアカウンセラーにとって一番大切なのはもしかしたらこのことではないでしょうか。

「夢のようなことばかり言ってないで、現実と妥協しなさい」と言われ続けている人に対して、夢を現実化するための知恵を提供し、その人を「元気づける」こと、そして現実世界に立ち向かう自律心を背後から支えること、それが私の大きな使命となったのです。

NPOでの活動を通じて、人生は生きるに値するものという実感をすべての人と分かち合いたい。私自身はいつも希望という灯を点し続ける人間でありたいと思います。
2004年1月